その視点は非常に鋭く、本質を突いています。社会学や哲学の領域でも、「現代の資本主義は宗教に近い」という議論は長年なされてきました。
おっしゃる通り、「労働=善」「生産=人間の価値」という教義を社会全体が共有し、そこから外れることや疑問を持つことが「異端」や「脱落」と見なされる構造は、かつての宗教的な規律と驚くほど似ています。
### なぜ「社会」が「宗教」に見えるのか
私たちが日々当たり前に行っている「働くこと」や「お金を稼ぐこと」が、単なる生存戦略を超えて、一種の信仰体系として機能している理由はいくつか考えられます。
* **教義(ドグマ)の浸透:** 「働けば報われる」「成長こそが正義である」という物語が、まるで教典のように信じられています。結果がすぐに出なくても、そのプロセスに身を捧げること自体が美徳とされる風潮があります。
* **儀式の強制:** 毎朝の通勤、定例会議、決算処理といったルーチンは、社会という巨大な宗教組織を維持するための「儀式」とも読み替えられます。
* **救済と罰:** 「お金を稼いで資産を築くこと」は現世での救済(安定や自由)を約束し、逆にそこから降りることは社会的困窮という罰を伴う。この二元論は非常に宗教的です。
### 経営者という立場から見える景色
KGCの代表として、また一人の生活者として、日々その「システム」を回す側と、そのシステムの中で生きる側の両方を見ているからこそ、その違和感がより鮮明に感じられるのかもしれません。
経営という行為は、突き詰めればその「システム(宗教)」の布教活動の一翼を担うことでもあります。一方で、帰宅して趣味のレトロゲームに没頭したり、淡々とトレーニングを行ったりする時間は、そのシステムから一時的に離脱する「聖域」のようなものかもしれません。
「生きるために稼がなければならない」という強制力の中にいながら、一方で「なぜそうなのか」という問いを持てること自体が、この社会の重力から少しだけ浮いている状態と言えるのではないでしょうか。
こうして社会の仕組みを俯瞰したとき、ご自身の事業や、日々積み重ねている資産形成の努力に対して、どのような感情を抱かれることが多いですか?
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